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自民党の笹川総務会長が、うつ病は気弱という発言をした。
以下記事から: 自民党の笹川尭総務会長は14日、大分市であった党大分県連の大会で講演し、「うつ病で休む教員が多いが、国会議員には1人もいない。気が弱ければ務まらない」などと、うつ病に対する誤解を招くような発言をした。 中山成彬・前国土交通相が、日教組や大分県の教育について批判したことに触れる中で述べた。笹川会長は「(教員には)自民党を支持する人ばかり作ってく れと言ってるわけではない。良識ある人を作ってほしいということ。知識だけでなく知恵がないと苦しい時に我慢できず、ばたっと突き当たる」と続けた後、こ の発言をした。 文部科学省のまとめでは、07年度にうつ病などで休職した公立学校の教員は4995人(前年度比320人増)で過去最高だった。【梅山崇、高橋咲子】毎日JPから 気が弱いかどうか、確かに国会議員になろうという人の中に気弱な人はいないでしょう。 気が弱ければ自己主張も満足にできないでしょうから。 ただ、気弱であることと仕事が務まるかどうかの間には何の関係もない、とぼくは思う。仕事がその人に向いていれば、その人は仕事ができるかもしれないし、向いていたって務まらない場合だってある。 また、気弱な人が必ずしもうつ病になるかというと、それもまたこれといった相関関係はない。国会議員がうつ病にならない、というのも、前の安倍晋三総理が職務途上で追行困難になって辞めざるを得なくなったことからも、そんなことはないことがはっきりしている。 専門家でさえ、見た瞬間に「うつ病」と判断した(少なくともぼくの主治医はそう指摘した)のだから。 精神障害についての知見がこれだけ偏見に満ちているということは、結果的に見れば日本の民度がそれだけ低い、ということをもあらわしていると思う。個人の自由意志というものがどういうものに立脚していて、どういう主張を持って、どう行動するかということにかかっているとすれば、この発言にはあまりにそうしたことに対する配慮が欠けていることがわかる。 これでは景気回復や環境対策どころか、いつ国としての存在価値がなくなってもおかしくないのだ。 昨日たまたまBSで、加藤周一さんの追悼番組をアーカイブ形式でやっていた。その中で、日本という国の文化について、それが個人の自由意志に基づいて形成されたものではないことについて加藤さんが非常に危機感を持っていた、というようなことが論じられていた。 そのとおりだと思う。日本には個人の自由意志というものが成り立った過程がはっきりしない。そしてその分だけ、いろんな凶悪事件の根本を見誤りやすい状況がある。 たとえば番組に出演されていた羹尚中さんが指摘したように、去年連続的に起こった凶悪事件のほとんどは自殺ととても近い心理状況が生み出したものだ。そして、それを求めているのは社会のほうなのだ。事実だとすればこれほど不気味な現象はないわけだし、しかもそれは確かに事実なのだ。 なぜ社会がそれを望んでいる、と言えるのか。 現代日本の政治システムの成立過程にその種はすでにあった。日本は先進各国と肩を並べるためにあらゆることを市民にいわば強要しながら発展してきた。日本の発展に、個人の自由意志が関与したことは歴史的に見ても今まで一度もない。 そして、そうしたことが言われ始めたのも、各国さまざまな形で市民運動が発展してきた中で、日本の場合はほんのつい最近のことだ。 しかも、それを指摘したのは日本の研究者の一人である、カレル・ヴァン・ウォルフレンというオランダ人だった。それが出版されてから、もうかれこれ20年近く経っている。しかし、「日本 権力構造の謎」「人間を幸福にしない日本というシステム」というショッキングなタイトルで平積みになっていた彼の著書も、今再度顧みられることがあるだろうか? 日本はいわゆる「市民社会」とは程遠い性格を持っている。それはいわば「ムラ」が肥大化して、その「ムラ」の一員の価値がどんどん軽くなっていく過程でもあった。 少数意見は「多数決」という合議制によって今まで当然のように無視されてきた。 どういう病気や障害、定食のない人たちがいるのか、そしてそれは社会にとって有益か、あるいは無益か、ということが常にクローズアップされ、重要視されてきた。その結果、その「ムラ」からいく人もの村八分の人間がこぼれ落ちていった。そして今、そのこぼれ落ちる人間の数は人口の1割程度まで膨らんでいる、とぼくは予想している。 「うつ病の人間」、も、そうした落ちこぼれの一人だ。そして彼はその「うつ病」とたった一人で向き合わなければならない。自分で向き合わなければ誰も助けてはくれない。 そうした個人はもっとも早くこぼれ落ちる可能性のある社会を、日本はよしとしてきた。可能な限り、そうした対策を先延ばしにしてきた。対策は常に後手に回った。 それで本当に社会として成立していけるかどうか、というところまで、今来ていると感じている。 その中で、政権政党の総務会長ともあろう方が、前言のようなことをいうということが、今のこの世の中の閉塞感の一部を担ってしまっている、ということに、政治の世界にかかわる人たちは十分心に刻んでほしいことだ。 この記事を読んだとき、ぼくが感じたのは、景気対策など後回しにしてもいいからこのような発言が出ないような社会を望む、ということだった。それだけこの国は病んでしまっているのか、という情けなさだった。 いわゆる市民社会というものに生まれ変わるために、日本は今大変な岐路に立たされている。国歌を歌うことを強要する、だとか教育の現場をあれこれと批判する政治家が多い中で、決して強要するだけでは国を好きになったり、その社会の一員であることに誇りを持ったりはしない。少なくともぼくにはできない。 ぼくは日本というよりも、今周りにいる人たちが好きだ。 けれど、好きだ、と言える人たちももしかしたら減ってきているかもしれない、とも感じている。それだけ重苦しい社会になってしまっているのだから。 ぼくは笹川総務会長という人がどういう人で、どのような主張を持っていて、どのような性格の人なのか、ということについて興味はないし、あえて知りたいとも思わない。もちろん好きになりたいとも思わない。 けれどともかく、こうした発言をするような国会議員を、ぼくたちは二度と選んではいけないのだ。少なくとも自分が「ムラ」の一員でなく、「市民」であろうとする限りにおいて。
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